どうしても比べてしまう

以上のようなところで様々な区別や相違点などを醸し出している20世紀版と21世紀版のゼロの焦点ですが、二つの作品を見比べたときにどちらの作品を名作と呼ぶにふさわしいのかを考えたときにはどちらの作品の手を上げる人が多いのでしょう。正直なところ、どちらの作品においても良点といえるものは沢山あり、また欠点があるのも致し方がないことでしょう。1961年作品においては何故か禎子が犯人と崖で対決するという今となって考えてみると少し笑えてしまうような作品となっていますが、21世紀版の方はどちらかといえば終始全体的にシリアスなもののように感じました。両方の作品において特に違った点を挙げるとするなら、やはり焦点をどの登場人物に絞ったかで異なるところでしょう。禎子に焦点を絞っている61年作品については終始観客も事件をといていく側として見ているような感覚に浸る一方で、どことなく客観的に見れるところもあります。その一方で2009年作品においては禎子は主人公ではありますが、終始物語の主軸から外れた所に立っていてそこからを全体的に見ているだけとなっているのです。その点においては後者に関しては佐知子が影の主人公として挙げられているのではないでしょうか。

佐知子の存在

古作品と新作品の違い、それは佐知子に対していかに物語を全面的に押し出しているのかということでしょう。彼女の、自らの野望に邁進していく姿を表現している中、障害となるもの全てを排除するために殺人も厭わず、さらに犯人に仕立て上げるために古い友人でもある久子を自害に見立てて殺めようとしようとしたのです。そういったところを中谷さんと木村さんの平成の名女優達は素晴らしい演技で見事に表しています。この二人の山道沿いにおける、佐知子の真実を話して殺そうとしているのに対して久子は呆然とするも、最後には何かを悟ったような顔をした瞬間友人が幸せになることを願いつつ投身自殺をしてしまうのです。しかし佐知子にとってはまさかの展開であることも確かで、久子へと手を差し伸べるも届くことなく空を切ってしまうのです。その後は久子の自殺を演出するために崩壊寸前になりそうな自我を抑えつつその場を後にする佐知子なのですが、ここからがある意味では2009年版では一番の見せ所だと思っています。

久子が死ぬ瞬間を目の当たりにして、急いで車で去っていく佐知子の車の中での心情を表現した中谷さんの演技力には物凄い危機感迫るような迫力を受けました。今まで自分が殺めてきた犯行の数々を思い出しつつ、自宅に着くとサンテラスにおいて自分がこれまで行ってきたこと、そしてそんなすべてを久子に押し付けようとしたのに抵抗もしないそれを受け入れてしまった彼女の最期の瞬間を見たことで、佐知子はこれまでにない以上に後悔することなった、そう私は見ているときに感じました。この時の中谷さんの顔面流血が何よりもインパクトが強すぎてその他の内容がかすんでしまっているようにも思えます。

かすむということで

映画にしてもなんにしても作品を通していく中でどうしても起こってしまう弊害としては、登場人物の誰かがかすんでしまうという現象は避けて通れないものだと思います。例え主人公として話の中心人物に抜擢しても、内容が進行していく中で全面的に押し出されてくるキャラクターは出てくるものです。作品を呼んでいる人の支持を得て、その方針からそのキャラがもっと活躍するようにとする編集からの以来というのもあると思います、この作品においても禎子を主人公として捉えるか、佐知子を中枢的なものとして捉えるかで全く見方は変わってきます。夫が今まで隠してきた真実を暴いていく禎子と、自分の目的のためならば殺人も厭わないがそれでも良心を捨てることが出来ない佐知子、それぞれ全く違う性質の登場人物を見てどう思うか、そしてどちらの気持ちに共感できるかで作品に対し点見方というものの変わってくるでしょう。

そういうことを踏まえて考えると、2009年版の作品をみた人の感想としてはどうしても主人公である禎子の存在があくまで傍観者として描かれているというところに難色を示す、という人が多いそうです。実際にインターネットなどのクチコミを見ても、どうしても主人公として登場している禎子が物語の外側に立っていることがどうしても馴染めないと感じる人が多いのも事実です。そんな彼女の姿に対しては、演者である広末さんの評判なども合わせて見ると好印象をもてないと考えている人がいるのかもしれません。勿論すべての人が否定的な意見を持っているかという点ではまた別問題となっているのですが。

やはり女優三人の存在が肝

ゼロの焦点では何よりも登場してくる女性三人のそれぞれの姿が特徴的となっています。何不自由なく育った禎子、生きるために何でもやってきた佐知子、ただ一途に女としての幸せを願った久子、この三人の存在が何よりも重要なものとなっています。この三人を比較して考えるとなったら、どうしても禎子の存在は激動過ぎた時代を生きるためにはなんでもしていた女性と比べたら存在感は薄くなってしまうものです。ここでもしも禎子が彼女達の経験と比べても見劣りしない過去などを抱えているのであればまた違う世界になったかもしれませんが、こういうところも松本先生の狙っていたところなのかもしれませんね。